刑法に抵触しない限り基本的には何をやってもいいんだけど、じゃあ刑法という「これやったら刑務所はいりますよ」という「犯罪パンフレット」に掲載されていない言動の全てが正解かというと、そうでもない。
模範的な行動でさえ顰蹙や矛盾を孕む場合があるから。
例えば終電で酔っ払いがホームに落ちたと。
マニュアル的な正解は「緊急停止ボタンを押す」なんだろうけど、
事情がわからないとか疲れてるとか、とにかくほとんどの人は終電が遅くなる事に対して「おいおいふざけんな」ってなると思う。
この顰蹙や矛盾に耐えられる人を「自立している」というのかなと。
でもそれは決して顰蹙を無視しようと言うのではなく、やはりどこかでクヨクヨする気持ちが出る。
「どうすれば良かったのだろうか」
「もっと良い正解があったんじゃないか」
みたいな。
SNSなんかでよく見る「GJ」、つまりグッジョブというは「正解が定義されていない・抜き差しならない状況の中で万人が納得する正解を叩き出す」だと思うんだけど、差し迫った状況において「これはGJなのかどうか」なんて考えてる暇はないわけで。
後々になって「あれは果たして正解だったのだろうか」と考える事ももちろん大切だけど、
その前の時点で大切なのは「とりあえず今は自分はこれが正解だ」と決断できる勇気なんだと思う。
ある時ライブ中にボーカルの声が出なくなった。
その場の思いつきでベース弾きながら代わりに歌ったのだけれど当方歌に自信は無い。
ただ、それ以外思いつかなかった。
もしかしたら途中で演奏やめてベースとドラムでデモンストレーションやるほうが良かったのかも知れないし、そこに正解は無い。
そして正解が存在しない世界だからこそ「神様ならどうするか」っていう問いが必要になる。
その神様ってのは、自分の規範意識だったり良心だったりするのだと思う。
後になってクヨクヨはするけれど、その時々で一生懸命になるしかないのだ。
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