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執筆者の写真Bun(ブン)

嬉しい事があっても素直に喜べないのは、子供の頃に泣く事を我慢してきた弊害。


どれだけ嬉しい事があっても素直に喜べなかったり、現実なのに「夢じゃないのか」と疑ってしまったり。


経験上、これは子供の頃に泣く事を我慢してきた弊害と言える。


「泣くのはかっこ悪い」とか、

「泣いてもしょうがない」とか。


そうやって悲しいという感情を押し殺してしまう内に、感情そのものが感受性を失ってしまう。


悲しいという感情だけを上手いこと押し殺す事は出来ず、「感受性」を「動かす」もの、つまり「感動」が薄らいでいく。


「悲しい」の出し方を忘れたのと同時に、「嬉しい」の出し方も忘れてしまう。


悲しみも喜びも、心という家の中では同居者なのだ。



怖いのは、心が育つ前に頭が育つ場合だ。


心は稼働していないのに、知識や知恵といったものを携えた頭だけが稼働するようになると、どんな出来事も頭だけで考えるようになる。


わかりやすいのは美術館で、有名な絵を見ても「だからどうした?」くらい。


そりゃラッセンなんかは単純に画力が凄いから、その綺麗さを見て「凄い努力したんだろうな」という感動はある。


ただ例えば「その絵はどんな想いで描かれたのだろうか」みたいな事は全く考えないし、絵に込められたメッセージなんかを受け取る感受性が無い。


そうなると、日常でも例えばスーパーで子供が泣いてても「泣いてるなぁ」という事実の認識までがせいぜいで、「悲しいのかな」とか、そういった所まで考えが及ばない。


「どうでもいい」とまでは思わないけど、感情起伏が起こらないからノーリアクションしか選択肢が無い。


心が育たないと、他者の発する想いやメッセージに気づけない。つまり共感する能力が欠落する。


そうなると、表面的なメッセージしか理解できなくなる。


例えば隣にいる人の笑顔を見て「楽しんでるな」という予想までは立てられても、「不快だけど波風立てなくないから笑ってやり過ごそう」という真意があった時に気づかない。



それでも、例えばテレビを見て泣くだけの感受性はある。


先のM-1でミルクボーイが史上最高得点を叩き出した時とか、映画「ジャック」でロビンウイリアムズに友達が出来たシーンとか。


(頑張りが報われて)良かったなぁって思う時は、心が動いている。


あるいは、楽器を弾いてると単純に楽しい。


だから心が完全に死んでるわけじゃない。


じゃあどうやったら心が回復するの?っていう所が当面の課題。


そもそも自力でどうにかなるのか、それとも専門の機関を頼った方がいいのか。


専門機関に頼るとしたら、どこへ行くべきなのか。


まずはそこからなんだろうかと。








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